画家、絵本作家 堀川理万子
記念すべき第1回目となるアーティストとして、画家、絵本作家、イラストレーターなど幅広く活動を続ける堀川理万子さんをご紹介いたします。
「葡蔵人」デラウェアを飲んだ堀川さん、
”デラウェアでこんなに楽しいものがあるとは、驚きでした”
-アーティストの道に進もうとされたきっかけは?
堀川 小さい頃から、絵を書いたり、ちっちゃい絵本を作ったり、そんなことをして遊んでいました。家の中にいろいろな絵がかかっていて、それを真似っ子してクレヨンで描いたりとか、私の好きな遊びだったんですよね。 学校では、文化祭のポスターに絵を使ってもらったりして、印刷に絵が使われるってすごく面白いなあと思ったんですよ。自分の絵が社会性を得るっていうかな、他の学校の人達がそのポスターを見て文化祭に来てくれたりっていうのを味わうと、絵ってすごく面白いかもしれないと思ったんですよね。その時は言葉ではぼんやりしていたけど、何か伝えるっていうことが、すごく面白いって思いましたね。すごくワクワクしました。
その頃、酔っ払ったおじさんのような絵をいっぱい描いていました。ひとコマ漫画ですね。それを描いてくれって他のクラスから依頼が来るんですよ。酔っぱらいのおじさんが常に出てきて、その人を取り巻く環境とその人の様子をひたすら描いていたんですね。
-その”酔っぱらいのおじさん”は身近にいたんですか?
堀川 父です(笑)運転手さんに連れられて帰ってきて、私三人姉妹なんですけど、女の子達で父を運び出すんですよ、車から。そういう様子を表現したいものだったんだと思います。
-ということは、”お酒”が創作意欲を掻き立てるきっかけになったと。
堀川 そこで結びつけちゃって良いかわからないけど、酔った人は、普段とぜんぜん違うキャラクターになるっていう面白さと、すごくそれが日常だったので、私の中の原体験、原風景になったということがあるかもしれません。 それを、いろいろなクラスの子から描いて欲しいってすごく言われました。今でも酔っぱらいのおじさんの絵を大事にしてくれている人がいるんですよ。
-今は描かないんですか?その酔っぱらいのおじさん。
堀川 挿絵の仕事をするようになって、いろいろなところにその頃描いていたおじさんのエッセンスが入っていると思います。 描いた絵で人を面白がらせるってことの始まりだったですね。表現したものがいろいろな形で広まっていく、それがすごく面白いと思いました。
(高校時代に描いた絵) 酔っ払いのおじさんが、トウシューズをはいています
-それが、芸術の道に行きたいというところに繋がったんですね。 芸術を趣味ではなく、仕事にしようと思ったきっかけはありますか?
堀川 とにかく、仕事を持つってことはしたかったんです。私の子供の頃は、女性が全員仕事を持つとは限らない時代だったんですよ。ちょっとくらいは就職をするかもしれないけど、一生の仕事みたいなことをする感じではなかったんです。ただ、うちの母が専業主婦で、母はこれはこれで自分は幸せなんだけど、自分が一生できる仕事を持つっていうのが、これからはすごく大事になるっていうことを私に言ったんですよね。あなたは絵が好きだし、そういうことを考えたらって言われました。母からの後押しを受けたというのもあります。やるからには、みっちりやってみたいと思いました。
-それから、美大進学のための予備校に通うことに。
堀川 はい。高校一年生の冬休みから。そこからのめり込んでいったんですよね。 その時に会った人達とは、未だに交流があります。絵が好きな人たちってこんなに面白いんだな、ってすごく思いましたね。先生達も、言うことがみんな変で、面白かったです。
-とてもスムーズに、大学に進学されたと伺っていますが。
堀川 現役では京都の大学に行ったんですけど、仲間がみんな浪人してるし、東京に帰ってきたくなっちゃったんですね。すぐ辞めて、東京に戻ってきちゃったんです。その翌年に、芸大に入りました。
-大学に入ってからは、どのようなことをされたんですか?
堀川 いろいろなことに興味があったので、立体を作ったりとか、植物をひたすら描いたりとか、高校生の時に漫画で描いていたおじさんをもっとリアルに描いてみたりとか、あと、ものすごく一杯模写をしたんですよ。
-なぜ、模写をたくさんされたんですか?
堀川 絵をたくさん真似して描くと、その画家の気持ちが分かるんです。漫然と見ていて記憶するだけでは見えてこないものが、なんでここにこういう配置にしたのかなとか、何でここにこの色塗るのかなとか、描き順とかも考えるので。そういうものを想像するのも楽しいし、過去の人達が何をやってきたかというのに、すごく興味があったんです。 芸大の(創作活動の)課題ってとても少ないんですよ、1年に3つとか出るだけなので、あとは自分の好きなことをやっていて良いんです。
くだものと木の実いっぱい絵本
-大学時代の思い出は、どのようなものがありますか。
堀川 予備校に続く第二修行時代という感じで、何かを詰め込まなきゃと焦っていました。 卒業後、どうやって仕事をしていこうかとはぼんやりとしか考えていませんでしたが、絶対ただでは終わらない!と、ギラギラしていました。
変なら変なほど褒められるみたいなところがありましたね。人と違ったことを考えて違ったことを言わないと、自分のクリエイティビティはとっても低いみたいな感じになってしまうので。レポートでも、どこかで見たことではなく、ちゃんと考えたことを書くと良い評価をもらえるというのはありましたね。
私はデザイン科だったんですよ。いま絵描きなんですが、油画科とかではなくて。 デザイン科にいると、みんなに伝わるものをやろうね、みたいな感じがあるんです。だから絵を描いていても、伝わることを前提に描こうねみたいな感じがありました。 ファインアートと、ちょっと考え方が違うところがありますね。
-なぜ、デザイン科を選んだのですか?
堀川 最初は陶芸家になろうと思って、京都の大学では工芸科を専攻したんです。高校の時、美術部では陶芸をやっていたんですね。絵を描こうと思って美術部に入ったんですが、陶芸もあるよと言われて、やったことのないことをやってみたいというのがあって。 絵は人気稼業だから売れれば良いけど大抵は難しいんだよということと、陶芸は使うものだからお金になりやすいし、女性が一生の仕事とするのに非常に良いと、予備校で指導を受けたこともあります。
京都ってすごく面白いんですけど、前衛陶器が主流だったんですよ。自分には前衛は合わないなっていうのがあったんですね。自分がそこにチャレンジしていけるっていう自信がなかったのと、陶芸ばかりずっとやっていくのも違うなと。
芸大にはグラフィックデザインがあるから、そこで絵を描いている人がたくさんいるのも知っていたし、立体もあるし工芸的な要素もある。芸大のデザイン科に行くと、いろいろなことを決めるのが後で良いっていうのが、立体でも平面でも、好きなものをいつでも決められるっていうのがあったんです。欲張りな私には合っていたんですね。
-大学卒業後、就職はされたんですか?
堀川 デザイン科なので、周りは就職する人も多かったですが、私は就職しませんでした。 大学院に進学して、初めての個展をしたんですね。その時景気が良かったというのもあって、絵がよく売れたんですが、こんな良いことはそう続くものじゃない、絵を描いて個展をして画商さんと付き合うって半端なく大変だと思いました。
大学の先生の紹介で、本の表紙に絵を使っていただいたり、友人の紹介でテレビの幼児むけの工作番組を作る手伝いをしたり、いろいろな仕事をしました。 全部縁なんですよね、誰かの登場によって、いろんなものの道がひらけていくというのはありましたね。
その後バブルが弾けて大変でしたが、なるべく好きな絵を描くために、いろいろな仕事をしました。いつも綱渡りのような感じでした。
作品名:あかね雲の話
-“ピンチ”はありましたか?
堀川 あるとき、ペンが持てなくなって、最初は手にペンをくくりつけて描いたりして何とかしていたんですがその後、足も動かなくなって、寝たきりみたいになってしまったんですよ。原因がわからないって医師に言われた時が、完全にピンチでしたね。しばらく入院しました。
一年近く全部の仕事を休んで、展覧会もキャンセルして、一生後悔するだろうなという仕事もたくさん断りましたが、「それはすごいチャンスかもね、これを乗り越えれば、あとで違う風景が見えてくるのかも」と言ってくれる人がいたんですよね。 その時は意味がわからなかったけど、それを経てきているおかげで、今は人の不調とか、気持ちとかっていうのがすごくよく想像できるようになりましたし、自分自身でも心身のコンディションが“ヤバイ”っていう一線がわかるようになりましたね。 良い修行時代でしたね。辛かったけど。
-それから、どのように復活されたんでしょうか?
堀川 完全に治るまでには、何年もかかりましたし、次の展覧会を開くまでに、四年かかってしまいました。 病気になってからも時々、病気だと知らない人から、連絡があったんですよ。 病気になりたての頃、連絡を下さった装幀家の方に、病気が治ったら必ず連絡してねと言われたことがあって、もう大丈夫かなと思ったところで電話したら、ちょうど良い仕事があると紹介してもらいました。
それから、仕事に戻っていると気付いてくれる人も増えて、徐々に仕事に復帰することができました。 ここ数年は、いろいろなものがキラキラしているように見えています。
-何かあったんでしょうか?
堀川 自分がものすごく嫌だなと思っていたものとか人とかに対して、嫌いだと思ったり世界を暗くしていると感じていたものが、必ずしもそうじゃないんだな、って気が付いたんですね。 すごく遅く大人になったってことですね。そういう風に思い始めた途端、人が変わったの。だから、あなた昔あんなんだったのに、変わりましたね、ってよく言われます(笑)いろいろなことが面白いです。
-創作活動で、目指すものはありますか?
堀川 おばあさんになった時は、ああいう絵を描いてみたい、っていうのはイメージがあるんですよ。割合若いときからあるんですが、最後に目指しているものは、抽象なんです。何で抽象かって言ったら、ホントの心だからなんだと思うんですよね。だけど、抽象ってものすごい欠点があって、まず空間がないってこと、何を描いているかわからないってところ、人の心にどうやって訴えかけて良いか、その言語がないってことが、ものすごい大きな課題なんです。その三つをクリアするためには、あらゆる具象を描いて、いろんなものをチャレンジして答えへの道を見つけなければいけない、と私は思っています。
空間をどう考えるかってことと、何を伝えたいかってことが、もっと年を取るとクリアになってくると思うんですよね。 今はわからないですよ。「ここにあったんだ」っていう気付きが、続けることでしか見えてこないものだったので、それでも、何十年やったから一つわかるっていうものじゃないんだけど、とにかくやらないとたどり着けないものだと思います。やり続ければ、そこにたどり着けると、確信に近い予感があります。
-堀川さんにとっての創作とは、何ですか?
堀川 わたしの中には、過剰で、いつも出口を探しているマグマのようなものがあって、その出口さえ見つかれば救われる、って思っているところがあります。 はけ口ではなくて、人に、「私はこんなことを考えているんです、どうですか?」って言うメッセージなんでしょうね。わかってくれる人は少なくても良いんだけど、届く人がいたら嬉しい。
えっちゃんっていう親友がいて、二、三歳のときに生まれて初めてできた友達なんですけど、彼女と一緒に絵を描いていると彼女が褒めてくれるんですよ。白菜の絵が素晴らしい、どうやって描いたのか、とか。彼女も絵が上手いんですよ。自分が尊敬しているえっちゃんが私の絵を褒めてくれるっていうのは、相当いい線行っているっていう感じがあったんですよ。やっぱり私の原点って、他者に見せるっていうのが前提になっているのかもしれないですね。
マリオネット劇場
-お酒関連の仕事をしたことは?
堀川 大手の酒メーカーの仕事をしたことがあるんです。度数の低いワインを特別に造るということで、思ったほど売れなかったみたいなんですが、ラベルのイラストはたくさん描かせて頂きました。 女の人が楽しく、ちょっと酔えるような、お酒苦手なんだけどちょっと飲みたいなみたいな感じの、それを飲んでも子供の宿題を見てあげられるくらいの、夫が帰ってきた時に顔が赤くならなければいいなとか、そういうコンセプトのものでした。
-お酒は何が好きですか?
堀川 ワインもウイスキーも日本酒も好きです。 「葡蔵人」デラウェアはびっくりでした。デラウェアでこんなに楽しいものがあるとは、驚きでした。
-お酒を飲まなかった期間はありますか?
堀川 病気をした時は止めましたが、今は二日酔いすることもあるくらい(笑)飲むこともあります。
-お酒と、創作活動の関わりを教えてください。
堀川 夕方になるとすごくくたびれて、ウイスキーを飲んでいる時期があったんですよ。ストレートで、香りが立つ程度にちょっとだけ水を入れて。 それをやっていたら、だんだん酒量が増えて、夜十時くらいになったらフラフラになって、でも絵を描いていて。 先輩に、酒豪の女性日本画家がいて、彼女から「日が出ている間はお酒やめよう、でないと私達アル中になるよ。本当にアルコールが一滴も飲めなくなったら、損じゃん。」と言われて、私もアル中は嫌だなと、それから日中にお酒を飲むのは止めたんです。
今は、描いている間は飲まない、夜十時か十一時位までは絵をやって、お酒を飲んで良いのはそれ以降。 アル中だけにはなりたくないんですよ。お酒を楽しみ続けたいから。 あと、お酒を飲んで気の置けない友人と喋るっていうのが、私にとってすごい大切な時間なんですよね。
お酒に合う料理があって、それでお酒が飲めないという状況も耐えられない。料理とお酒とお喋り、それが三種の神器。創作の活力になりますね。
堀川理万子さん プロフィール
1965年東京生まれ。東京藝術大学デザイン科卒業、同大学院修了。
タブローによる個展(銀座 和光ホール、南青山 新生堂, 銀座 相模屋美術店、アートフェア東京など)を定期的に開催、その一方で子ども向けの絵本の制作も。
『くだものと木の実いっぱい絵本』あすなろ書房、『身近なモチーフで描く水彩画』誠文堂新光社刊 など、著作多数。
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